💭ここは、思考が始まる場所

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🟦 1|自己理解とは「所有」ではなく「出会い」である

私たちはよく、「自分を知ること」を“整理すること”や“管理すること”のように捉えがちです。 得意・不得意、性格タイプ、過去の経験──そうしたものを“自分の棚”に分類していく。 確かにそれも大切なプロセスですが、私が考える自己理解は、もう少し静かな“出会い”に近いものです。

それは、自分という存在のなかに、これまで気づいてこなかった温度や手触りに触れていく行為。 すでに自分の中にあるのに、まだ言葉になっていなかった感情や、 過去にはなかった視点や願いに、“いまの自分”としてふと出会う瞬間です。

だから、自己理解には時間がかかるし、ときにとても苦しく、逃げたくなることもあります。 自分の矛盾に気づいたり、無意識の防衛線を見つけたりするからです。 でも、それは“壊れる”ことではなく、“やわらかくなる”ことだと思っています。

そしてその出会いは、誰かと一緒にいる時間のなかで起きることもある── 誰かの言葉や問いに、自分が静かに反応してしまった瞬間。 その反応こそが、自分という存在が「いま、何に触れているか」の証です。

自己理解とは、整えることではなく、出会い直すこと。 だからこそ、ここでは「整えよう」としすぎなくていい。 あなたがあなたに、ふっと気づくように出会えること。 そのために、この場所を開いています。

🟦 2|正解よりも「問いの仕組み」を整えること

悩みや選択に直面するとき、 「どれが正しいか」「何が正解か」を知りたくなるのは自然なことです。 けれど、私が日々人と関わるなかで感じるのは── 「正解を知らない不安」ではなく、「問いの立て方がわからない迷子状態」に苦しむ人の多さでした。

問い方が変われば、たどり着く答えも変わります。 そもそも、問いが曖昧なままだと、どれだけ情報を集めても何ひとつ腑に落ちない。 だから私は、「問いのかたち」を一緒に整えることに、何よりも時間をかけています。

それは、答えを代わりに出すということではありません。 むしろ、その人自身が「自分で考えた答え」と出会えるようにすること。 問いを問える状態にする──それが、伴走者としてできる最大の支援だと思うのです。

とくに現代では、「最短ルートでの正解」が求められがちです。 ですが、それが本当にその人にとっての“納得のいく答え”かといえば、必ずしもそうではない。

問いの質が、人生の方向をつくっていく。 だから私は、問いを急がず、静かに耕す場を大切にしています。

🟦 3|誰かを導くために、自分が透明であること

誰かの人生や選択に関わるとき、私たちはどこかで「助けになりたい」「良い方向に導きたい」と願うものです。 でも、そこで「自分の考えや経験が正しい」と信じすぎてしまうと、 その人の中にある声を、知らず知らずに覆い隠してしまうことがあります。

だから私は、“導く”とは、“押しつける”ことではなく── むしろ、自分自身をできるかぎり透明な存在としてそこに在ることだと思っています。

たとえば、相手が問いを発する前に、こちらの答えを先回りして差し出してしまうと、 本来浮かび上がるはずだった問いや願いが、静かに引っ込んでしまうことがあります。 それは、善意であっても、相手の“選びたい感覚”を損なうことになりかねない。

だから私は、答えを急がず、問いを尊重します。 そして、その人が見ているものと同じ高さに視線を合わせて、 ともに立ち止まり、ともに迷うことを選びます。

それは、決して「何も言わずに寄り添う」ことではありません。 ときに問いかけ、ときに俯瞰して、一緒に考える。 けれど、それでも自分という存在が景色を曇らせないようにすること── それが、私の中にある“ファシリテーター”という役割の芯です。

道を示すのではなく、光の向きを一緒に探す。 そして、また立ち止まりたくなったときに、そっと戻ってこられるように。

私は主役にはなりません。 けれど、いつでも、そっと灯っていられるように、ここにいます。

>この場所に込めた願い

この場所に込めた願い

あなたの歩幅で、あなた自身の言葉を見つけられますように。
この場所が、考える力と寄り添いのきっかけになりますように。

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